人生とは常に勉強である。
すべての知識には可能性がある
かの天才レオナルドダヴィンチはそう言っている。
例えば、私たちの夏の生活に欠かせない蚊取り線香だ。
あれは偶然、殺虫効果がある植物である除菌菊のことを知っている金鳥の創業者が旅の途中で線香屋の人間と交流を深めて開発されたと言われている。
ある人間の一見すると無駄な知識が、きちんと正しい知識のある人間と出会い、私たちの生活に欠かせないものが発明されたのです。
人間の知識に決して無駄なものはないというのが、わかるエピソードなのです。だから私たちは人生を通して勉強しつづけ、知識を身につけ続けるのです。
たとえばタクヤの射精が3000円なのも、おじさんがひでみたいなかわいい子の悶絶する顔が大好きなのも、田舎少年がスケベなことしか考えていないのも思わぬところで役に立つこともあるのです。
だから私は淫夢を見続けるのです。決して遊んでるわけではないのです。
私がかのコンテンツに出会ったのは大学生の頃である。私はKBTIT先生で淫夢にハマり、人生の約8年間。学生時代から今の会社員時代まで、様々な場面で淫夢と接してきた。
僕が淫夢にハマった最初の1年間は寝ても覚めても淫夢を見続け、スマホゲームのBGMがわりに淫夢、夜に酒を浴びながら淫夢、運転中に淫夢、友人宅で淫夢。大学の休憩時間も淫夢の会話。気づけば生活の周りは汚いホモビに囲われていた。
Fラン大学に僕が通いながらホモのおっさんでゲラゲラ笑っている中、幼馴染は有名国立大で一流企業の内定を取り、顔も知らない同じ大学の陽キャは彼女を作りセックスをする毎日を過ごしていた。高卒で働く友人は大きな収入をえて、それなりの年収と経験を得ていた。ぶっちゃけ失ったものは大きい。
仲間であるはずのオタクどもも、カードゲームに興じ、ラブライブにはしゃぐ中、俺は暗がりの部屋で赤字コメをうち、ゲラゲラはしゃぐ毎日だった。それで俺は幸せだった。
しかし失ったもの以上に得たものも多い。毎日淫夢を摂取すると、倫理観は変わる。くだらない日常を忘れ、野獣やおじさん、KBTITの言うことが正しく思えてくる。日常生活の中で見つけた様々なワードが淫夢語録に聴こえてきて常に結びつけてしまう。そして心の中ででほくそ笑むのである。
日常生活で不自由することも増えた。すでに成人を迎えた男性である僕が街中でいきなり笑い出したら不審者どころではない。しかもホモビのセリフを声に出してしまったらそれどころの話ではない。クッソ汚いホモビのセリフや行動は決して一般社会で見せつけていいもでは無いはずだ。普通に不快である。
町中の様々な場所に生息しているちょっとした淫夢要素に耐える日々が続くのだ。
その経験で手にしたのは忍耐力だ。日々摂取した淫夢によって発生するミーム汚染。そこで語録を大声で喋り、はしゃぎたい自分の思いを抑え、自己管理していく。これはなによりも耐え難い屈辱だった。
その屈辱に打ち勝ち、自分がいままでの人生で積み上げてきた社会的価値を失わないようにするのは、大きな経験になった。
今ならガンジーも超えられるだろう。
生粋のオタクである僕は、スポーツマンが苦手だった。空手部、サッカー部、ラグビー部のように体格がよく、声がデカく、陽キャなノリの連中が苦手だった。
しかし淫夢を摂取してからは、アイツもどうせ黒塗りの高級車にぶつかり、ケツを掘られながらンギモチィって喘ぎ、アイツもどうせ部活に行けば先輩2人にケツ出せ!と言われながらしゃぶらされ、そして屈強なアイツも後輩に告白され先輩のちんこ美味しいっす!と言いながらしゃぶふのだろうなと考えるようになった。
一つの苦手を克服したのである。
満開となれば、やがて花は落ちる。太陽は南中すれば、やがて陰りはじめる。人は壮年を迎えれば、やがて老いていく。百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆったりとくつろぐ暇などない。
かの吉田松陰の言葉にあるように人生とは勉強なのである。
日々の積み重ねが、もたらした結果が僕が淫夢で得たものであり、歳を重ねるごとに得たものは宝物となっていく。
これから10年、20年、30年とホモのおっさんを摂取することにより得るものも増えていくだろう。生を全うするまで勉強しつづけ、一つの道を極めていくことで大きなものを得ていくのである。体の老いは人間の力では止めることができないが、知識を深め、必死にホモビを見ることにより、心や脳の老いは解消できるはずだ。
私たちの人生にゆったりとくつろぐ暇などはない。日々摂取するホモビにより、より華々しい人生が訪れることを僕は確信している。